前田卓
Takashi Maeda


Profile
アトリエ タアク 代表
青森県弘前市北園2-11-11

1953 青森県生れ
1979 工学院大学建築学科卒業
    前田建築設計事務所などに勤務
1993 アトリエ タアク開設、現在に至る




アトリエ タアク



Piano Box



野辺地カトリック幼稚園



Advent Hills



Advent Hills-インテリア



三省児童館



三省児童館-インテリア
晩夏の津軽に行った。秋田を巡って弘前に入る。津軽の中でも弘前には特別の思いがある。9年ほど前に、雑誌・住宅建築の連載「建築春秋」で、津軽の棟梁・堀江佐吉を取材した。「建築春秋」は、近代の建築家や棟梁にスポットを当て、その現存する作品とプロフィルを紹介する、という私が企画した連載である。その第1回目に、堀江佐吉を取り上げ、執筆者に日大の山口廣教授をお願いした。雑誌社の女性記者と3人で夏の弘前を訪れた。津軽は、ねぷたの支度に忙しい時期だった。
堀江佐吉を知ったのは、それからさらに10年近く前の、建築知識の連載「近代建築再見」の取材の時で、この時は、金木の太宰治生家「斜陽館」を訪ねた。現在は、太宰治記念館になっている。斜陽館は佐吉の仕事で、そこで初めて堀江佐吉を知ったのである。雪の舞う津軽であった。

3度目の弘前訪問である。街には、毛綱毅曠さん設計の怪異な?デパートなどもできていて、町の印象に変化があった。どうも、津軽=地吹雪、低く黒い民家、ねぷたの華やかさなどという通俗的な印象が、自分の中で確立されていて、現代的なものは津軽の風景に馴染みそうもない、せいぜい近代洋風建築までにして欲しい、などと勝手に思っている節がある。津軽で活躍する建築家の方々には、迷惑な先入観である。だから、というわけでもないが、津軽の現代建築には大した期待はしないで入った。尤も、弘前には前川国男さんの作品が多く。土地の人の話では、前川作品が、最も纏まって見られる町だろう、という話も聞いたから、前川作品を、もう一度確認する楽しみはあった。津軽で建築を目指す人達には、前川作品が多く眼前にあるのは、幸せなことといえる。

弘前に入ってから、同行の記者が前田卓さんに電話する。前田さんは、宴席にいるようだった。来ませんか、という誘いに乗って、タクシーで雑誌記者と訪ねる。夜8時頃だっただろうか。私のとっては珍しい行動である。近年、日暮れてから人を訪ねるようなことはない。単純に、面倒だからである。相手が初対面だと益々いけない。それが何となくだが「行って見る気に」になる。そこはイベントホールのある住宅のようだったが、暗くて見当も付かない。そこには、前田さんとオーナーと縁者の4、5人のみが団欒していた。皆さんの身内話を、少々の眠気を堪えながら、記憶もできずに遠くに聞いて帰った。

目覚めると雨模様。市内の幾つかの建築を見てから、前田さんのアトリエのある自宅を訪ねる。前田さんは、1953年生れだから、46才である。この連載は、私が新進気鋭の建築家を訪ねるというキャッチフレーズだが、新進気鋭とは何才位をいうのだろう。私は40才前半位までと思っているが、それだと今まで登場頂いた建築家の皆さんは、気鋭であっても、一人も新進とはいえない。もう少し年齢幅を広げて、やっと前田さんが網にかかる年齢である。丹下健三さんを基準に考えれば、50代も新進気鋭だろうから、そういうことにしておこう。ともかく前田さんのアトリエを撮る。前田さんは親子二代の建築家である。建築家を父に持ち、前川作品を遊び場のようにして育った、建築に向かうには絶好の環境である。環境が、生れながら自分の職業を決定した、というケースは建築に限らず稀ではない。親の強制の有無は別としてでもある。前田さんは、父親の仕事もさることながら、前川作品を「かっこいい」と見続けたようだ。それでも自己の建築に対する紆余曲折、自問自答は十分にあっただろう。ほとんど当てのないままに独立したのが、1993年のことで、その時に建てたのが、自分のアトリエ兼住宅である。

仕事が無いのだから、「主夫に徹して、食事の支度や子供の世話」という家事を引き受ける。そうしながらも、門外の日銭稼ぎをしないで、自分の思う道を目指すということは、大賛成で、快地良い。食えないなら何でも日銭稼ぎをしなくては…と思うところから、精神が貧しい方向に向かい始めるのは人の常である。今は、秩父に近い小さな町に借りた仕事場で、一人暮らしを楽しむ私だから家事もする。家事で創造的なのは料理くらいのもので、後は後始末的な作業が多い。掃除などは少々面倒な時もあるが、それでも望まない仕事をするより、マシな作業である。主夫の選択は間違っていないし、奥さんの理解も評価に値する。

前田さんのアトリエの近くにある前田作品を見る。一つは、住人よりグランドピアノが主人という住宅。別名「ベーゼンドルファーの家」。住人はピアノの管理人というコンセプトである。ピアノは家に匹敵するほどの高価という。もう一つは、前夜にお邪魔したイベントホールのある住宅であった。どちらもシンプルながら柔らかさと楽しさを感じさせるもので、好感が持てた。彼の第一印象に似ていた。ここでも仕事は人なり、の感が強い。建築知識のインタビューで、「自分たちの後に続く者が出てくるかどうか、は我々に責任がある」と答えている。建築を通じて社会に対する責任意識の表れである。彼の作品に対しての大きな不満はない。老婆心でいうなら、地域で、これからのリーダーシップを取れる人と思えるから、これからも広く多くのものを見ることを奨めたい、建築でもそれ以外でも良い。自分を強いて、日本を、世界を巡る旅人になって自己の内側をより太らせて欲しいと願う。彼のこれまでがどうあったかは知らないが、作品を見て、ふとそう思った感想を率直に述べるまでである。妥当な意見であるかどうかなど自問しての言葉ではない。言い放しの無責任は、私の特技として赦して頂くことにする。
彼の次の作品が楽しみだが、命長らえ、今度は春爛漫か、秋景の津軽を訪れたい、と思いながら、青森の街に向かった。


WORKS
1993 自宅+アトリエ        弘前市
1995 Piano Box      弘前市
1996 野辺地カトリック幼稚園    上北郡野辺地町
1998 Advent Hills   弘前市
1999 三省児童館          弘前市
 

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